エムエスツデー 2013年1月号

ごあいさつ

(株)エム・システム技研 代表取締役会長 宮道 繁

(株)エム・システム技研 代表取締役会長 宮道 繁

 あけましておめでとうございます。

 1972年に、生涯現役を目指して社長兼平社員の「1人株式会社」としてスタートしたエム・システム技研は、昨年(2012年)4月に創立40周年を迎えることができました。本当にありがたいことだと、これまでエム・システム技研の活動に関与してくださった多くの皆々様に感謝の気持をお伝えしたいと存じます。

 創業の1972年といえば、その前年にはニクソンショックがあり、翌年には第一次オイルショックが起こっています。それから1979年には第二次オイルショックがあり、1985年にはプラザ合意で一気に円高が進行し、1991年には日本のバブル経済が崩壊しました。そして「失われた20年」といわれた時期を経て、現在の日本は、円高、デフレの真っ直中にあります。
 それでも、エム・システム技研が、ただの一度も赤字決算をすることなく今日まで成長してこられたのは、本当にラッキーだったのだとつくづく思います。

 脳科学者 茂木健一郎氏は、著書「ひらめき脳」の中で、“セレンディピティ”という言葉を紹介しています。その日本語訳は「思わぬ幸運に偶然出会う能力」というものだそうで、また「そのような偶然による幸運に出会うことそのものをセレンディピティと呼ばれることがある」と記されています。
 どうやら私は、このセレンディピティの持主なのでしょうか。この40年を振り返りますと、節目毎に不思議な幸運に恵まれてきたように思います。
 創業の年、異なる用件で協力会社を探して日本橋を歩き回っていたとき、たまたま通りががりの電材卸を商う三重電業社という店舗に立ち寄り、店長さんに「電子回路を組立ててくれる会社を知りませんか?」と尋ねたら、大阪電子という会社を紹介してくれました。さっそく訪ねてみたところ、その会社は電子回路の設計から試作までを全部やってくれる1人企業でした。その社長は大変器用な人で、プリント基板のエッチングから部品実装、組立調整までを全部1人でやってくれる人でした。
 そこで大発見、私が目指していたプラグイン式変換器「エム・ユニット」の構想にぴったりの、黒いプラスチックのケースが置いてあるではありませんか。
 「これをどこで手に入れたんですか?」・・・「これ僕が作ったんです。」???エッ!・・・「じゃあこのケースを売ってもらえますか?」「はい。でもワンオーダー1,000個以上でないと受けられないんです。・・・」と。
 その時は、ともかく1,000個だったか2,000個だったか覚えていませんが注文した結果、間もなくそのプラスチックケースが運び込まれました。何とその量の多さにビックリしました。本社である自宅2階の6畳の部屋が一杯になりました。それから間もなく、避雷器の開発が軌道に乗ってこのケースは瞬く間に「エム・レスタ® 」になって出荷されて行きました。
 その後私は、この会社 大阪電子を社長を含めて買収することに成功し、工業計器メーカーの道を歩み始めることになりました。

初期の「エム・ユニット」と「エム・レスタ」のカタログ

 当時の工業計器業界は、工業計器の専門メーカー7社と重電機メーカー4社の工業計器部門が「電子式工業計器」の開発競争を展開しており、それら各社が計装用信号としてそれぞれ独自の電流信号、電圧信号を採用したものを製品化して販売していました。
 またその頃は、高度成長時代を背景に日本各地の海に面した地域に、コンビナートと称する工業団地が続々と開設され、そこに世界最大級の工業プラントの建設ラッシュが続いていました。この工業プラントには、石油精製、石油化学、鉄鋼、紙パ、セメント、水処理などあらゆる素材産業が含まれていて、大手工業計器メーカーは、各社の得意分野のプラント設備の計装システムを、一括受注する形で激しい競争を展開していました。
 前述のとおり、メーカー各社が採用した計装用電流信号には、4~20mA DCのほか、1~5mA DC、2~10mA DC、10〜50mA DCなどがあり、メーカー毎に採用している電流信号が異なっていたため、建設された巨大プラントの中には異なる電流値の計装信号を用いた計装システムが多数混在していました。
 エム・システム技研は、それら各メーカーのいずれの計装信号をも入・出力および信号変換できる信号変換器「エム・ユニット」を開発・製造・販売することにより、ほとんど競争のない新しい市場を創設して、成長軌道に乗ることができました。
 その結果、1980年頃には毎年40~50%の急成長を続けていました。その間、全体の出荷量が少ない初期の頃には部品の調達や組立加工は何とかなっていましたが、次第に急激な成長を遂げ規模が拡大するにつれ、人材確保に苦労するようになっていました。

 そんな時期に、私が脱サラ前の14年間勤務していた(株)北辰電機製作所が(株)横河電機製作所と合併し、横河北辰電機(株)が発足しました。それが1983年ですから、それはエム・システム技研の第12期の出来事で、ちょうど売上高が13億円くらい、従業員数は50人に達していた頃に一致します。そこへ元北辰電機の友人達が30人近く新天地を求めてエム・システム技研に参加し、即戦力になってくれたのは本当にラッキーでした。これも私にとってはセレンディピティではなかったかと思われます。
 その後7〜8年で日本のバブル経済は崩壊しますが、その時までにエム・システム技研の年間売上高は、60億円を超えるところまで一気に拡大してゆきました。
 新メンバーの加入により、エム・システム技研内の工業計器特有の技術や文化が洗練され、生産体制に関してもNPS(ニュー・プロダクション・システム)の指導的役割を演じていたメンバーが含まれていたこともあり、物作りの姿も多品種少量生産、短納期に適した「1個作りシステム」が完成してゆきました。
 工場内は整理整頓され、部品の入出庫も「カンバン方式」が取り入れられて、生産能力も大幅に向上しました。バブル経済最盛期の1991年には現在の本社工場が完成し、分散していた本社機構、工場、営業部門を集中させることで、効率の高い経営体制ができあがりました。

 それから20年、国内の工業計器の市場は伸び悩み、縮小に転じてゆきました。工業計器を生産していた大手のメーカーは業容を縮小するか、海外に転出してゆくことになりました。工業計器は生産財であるので、工場の新設や増設が低迷しても、過去の高度成長期に完成した工場が操業を続けている限り、それらの工場において10年20年と使い続けた工業計器を新品に更新せねば操業が続けられません。それまで使用してきた工業計器を、メーカーが生産中止や廃形によってこの更新需要に応えられない事態が発生することは、生産財のメーカーとして許されるものではないことを私は持論としていたこともあり、「廃形をしないエム・システム技研」を堅持してきました。

 現在ではこのことがユーザー各位から高く評価され、景気動向に関係なく、昨今エム・システム技研が多くの注文をご指名でいただけているのも、またセレンディピティといえるのかも知れません。

三十三間堂 「大的全国大会」 = 京都市東山区

(2013年1月)


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